民間企業は、来年も新卒採用に積極的で、学生にとって就職は広き門となっています。ところが、学歴社会に慣れた人にとって、苦労して入学したいわゆる”良い大学”が必ずしも就職に有利とは限らないと思われることもあります。
数年前に大学3年生の外資系就職の就活(就職活動)グループとご縁ができて少しお話を伺ったことがある。
その中で耳に残った言葉は、筑駒―東大法学部に進んだ秀才君の就職観だった。彼曰く、こうした学歴になればなるほど自分たちのつく職業は限られてくる、というのが実感です、とのことだった。
確かに受験雑誌や進学関係者の常套句に、よく勉強していい学校に行けば将来の可能性を広げられるというものがある。当然そこにあるイメージは全能感の全開のようなものであるが、いざその立場に立たされた当人ともなれば相場感というべきものが形成されて、国家公務員か、大学に残るか、外資系か、司法試験かといくつかの選択しかないようなことになるものだそうだ。つまりその意味では進路の可能性が狭まるのである。
そういえば昔、三島文学の心酔者に三島が『豊饒の海』の叙述の中で、太平洋岸の海辺を記述するに当たって、普通なら洋々たる海原が前途に広がっている、と書くべきところを、太平洋がついにそこで(海辺)つきている、という表現をしていることを熱く語られことがある。視点(立場)の違いで風景はかくも変わるものである。
過日、私どものところで学校と保護者に第一志望の受験校は誰が決めているか、という問いを含んだアンケートを実施した。
当然、学校側は誰がきめている「と思うか」であるけれど、選択肢は受験生本人、父、母、その他の中から選ぶのだ。学校側の回答は母親が圧倒的だったが、保護者側の回答は実は本人が圧倒的だった。
商業の常識ではこの年代の客層は親だけでも子どもだけでもなくて、親子同時立会い客層に分類される。どちらかが不同意ではサービスも購入してくれないのだ。
ただその購入決定に際しては様々な態様がある。それにしてもここまで本人決定が強いというのは予想の外だった。
実はそれは成績上位層ほどその傾向が強い。確かに親の教育的配慮として形の上で子ども自身の決定にした方がよい、という深慮もあるだろう。もう一つ考えられるのが冒頭の東大生の立場である。今のシステムでは成績上位生になればなるほど相場感から受験する学校が限られてくる。そうなればそのどこに進学してくれても親としては差し支えないという心理も働くのではないか。結果として子どもの決定にゆだねることになる。
6年生の連休明けには第一志望校を決める方が多い。こどもに任せられるぐらいの成績であると良いのだけれども、そうでなければあらゆる可能性を想定し、前途洋洋路線でのぞむしかない。